その8 海外下請発注制作の始まり
テレビアニメを、より安く早くつくる下請け制度の行き着く先は海外でした。
「黄金バット」から始まった
1965年に日韓基本条約が結ばれて、まだ、まもない67年。第一動画製作の「黄金バット」が、韓国下請発注制作の第一号と言われています。「日本アニメーション映画史」(山口且訓 渡辺泰 著 ㈱有文社刊)は、「黄金バット」が「テレビ動画化されに際し、話題となったのは日韓共同製作である。共同製作といえば聞こえはよいが、悪く言えば人件費の低い韓国へ下請け外注に出しただけである。韓国の東洋放送と第一動画が提携、東洋放送は動画製作部門を設け、男女百人のアニメーターを採用。日本から絵コンテ、原画を空輸、トレス、彩色し再び東京に空輸、第一動画で撮影のシステムが採られた。このため、第一動画から技術スタッフ2名を韓国へ派遣させた。」とあります。
1970年に入ると、東映動画が韓国に技術者を派遣しアニメプロを養成。東京ムービーは台湾に技術者を派遣しプロダクションを育成し、本格的な海外発注制作の道が作られていきます。
東京ムービーは、下請制作プロの中核となっていたAプロダクションに、台湾での技術教育を委託。Aプロの社長で作画監督の楠部大吉郎氏、アニメーターの大塚康生氏、仕上げ(トレス・ペイント)の山浦浩子氏などが交代しながら台湾に出向いてアニメーターやトレスやペイントの仕上げ部門を育成しました。
労働組合のジレンマ
当時、東映動画には東映動画労組、Aプロには映産労Aプロ分会があり、それぞれが「海外下請発注制作は近い将来自分たちの首を絞めかねない」との危機感を持ち、スローガンとしては「海外下請制作化反対」を掲げました。しかし、番組を放送日に間に合わせる「当座の人手不足、労働強化、長時間労働の解消策」の側面があること。さらには、「派遣される指導者が仲間から尊敬厚い優れた技術者であること」などから、海外下請を直接的具体的に阻止する行動は採れず、海外下請は労働組合にとって実に頭の痛い悩ましい問題でした。(この指摘は、東映動画労組に限っては過っていました。その内容は3月7日掲載の頁に詳しく紹介し、お詫び申し上げます。)

79年に入ると、東映動画は人件費が上がった韓国に変わって中国に下請制作の触手を伸ばし始めます。参考資料は、1979(昭54)年1月27日付け日経新聞のコピーです。